徳川家康の死因は何?3つの説を検証して見た!

その最後が謎に包まれたままの徳川家康ですが、一体死因はなんだったのでしょうか?様々な憶測が語り継がれていますが、謎が多いようです。

徳川家康といえば幼いころから人質の時期を送り、その時はいつ殺されるかわからない人生でした。

しかし最後は、関ヶ原の戦いに勝った日本でもっとも有名な武将です。豊臣秀吉は関白の身でしたが、家康は征夷大将軍となり武士の頂点に立ったのです。

これを語り継ぐ歴史書、ドラマ、映画は多く国民の誰でもが知っていると思います。

この徳川家康の最後、つまり「死」に焦点を当てどんな人であったのか、家康の人間像に迫ってみましょう。意外と知られていない事実があるかもしれません。

それでは、徳川家康の死因について見ていきたいと思います。

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徳川家康の死因はなんだったのか。

 これにはいくつかの説があります。

① 一番有力な説は、胃がんによる死亡です。

家康は鷹狩をしているときに激しい腹痛を起こして突然その場で倒れました。

家康は、自分の体には昔からサナダ虫がいるからだと主治医にいったそうですが、サナダ虫による症状とは異なっていたようです。

家康は、当時身体のやせ方が激しくまた吐血しています。

胃からの吐血からだと思われます。さらに、お腹に大きなしこりがあったそうです。

これだけの症状がそろえば重度の胃潰瘍か胃がんが疑われます。それから3か月後に死亡ですから胃がん説が一番妥当性があります。

② 次は、鯛の天ぷらの食べ過ぎです。

家康は、その人生から何事に対しても慎重な人柄でした。

しかし好奇心旺盛な人柄でもあったのです。

家康の時代、天ぷらは非常に珍しい料理でした。今の天ぷらとは少し食べ方が違っています。

家康が食べた天ぷらは、鯛のすり身を油で揚げた、丁度さつま揚げに似たものだったいわれています。

その天ぷらが原因で家康は激しい腹痛を起こしました。療養するために駿府に帰っても一向に良くならず激しい腹痛は続いたそうです。

それが原因で死亡した説です。家康は当時75才で年齢から考えて消化不良・消化器官の異常で死亡にいたったという考えです。

③ 最後に徳川家康は関ヶ原の戦いの時にすでに死亡していたという説です。

正確には暗殺されていたということです。家康が自分とすごく似っていた世良田次郎三郎を影武者として使っていたという説は有名です。

「徳川実紀」というものがあります。これは徳川代々の将軍について書かれた記録です。

そこに次のようなことが記してあります。日ごろから家康の信任が厚くお傍近くにつかえていた野々村四朗右衛門という人物がいます。

役割は使番でした。武田の忍びがその野々村と入れ替わり、家康を殺したという話です。

話として出来過ぎていますが、戦国の世では何があるか分かりません。ミステリーは深まるばかりです。

徳川家康はどのような性格だったのか?

 徳川家康の中核をなす性格は、幼少期から今川家の人質になったことでだと思います。そこで大切な青春期を入れ約10年間という月日が流れています。

①家康が詠んだかわかりませんが、有名な句で「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」があります。誰でもがその句を聞けば徳川家康というぐらい彼になじんだ句です。

この句から分かるように、慎重で我慢強い性格であったといわれています。それは、いうまでもなく人質生活の影響が多大に出ています。

②律儀で義理堅い性格であったと考えられています。

それは、征夷大将軍になるまで今川義元や織田信長、そして豊臣秀吉を裏切ってはいません。

最後に豊臣家と天下分け目の戦いをしていますが、実は徳川家康は豊臣家を滅亡させる意思はなかったと伝えられています。

結局、戦になったのは戦乱の流れでなったということです。織田信長、豊臣秀吉と比較してみればよく家康の性格がわかると思います。

③家康は戦になると気が短くなるといわれています。例えば、徳川家康は武田信玄に挑発され短気を起こし、これといった確実な戦術もないまま戦いを挑み敗れています。

④三河武士はもとより強いことで知られていました。

しかし、それを一層確実に強くしたのは徳川家康が常に部下のレベルの向上に尽くしたからです。部下の育成に熱心だったからこそ、徳川軍は日本一強い軍団に成長することができたと考えられます。

⑤徳川家康は、すべてにおいてケチだったと言われています。

着るもの食べ物すべてにおいて質素倹約でした。また、徳川家康は家臣に大国を与えないことでも知られていました。

⑥徳川家康の健康に対する関心は人並み外れたものでした。

常に自らの健康状態に神経質だったといわれています。自ら漢方を調合しそれを常時持ち歩き服用していたと言われています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。歴史上でももっとも有名な武将の徳川家康ですが、死因にも様々な説があり、はっきりとはわかっていません。しかし、現代ではこれを解明しようといろいろと調べたりして、ミステリーがあって面白いところかもしれません。

非常に徳川家康が有名な武将である他に、優れた人格者であることが分かりました。家臣への思いは心温かいものがあります。

幼少の人質時代から戦国時代を経て征夷大将軍になった家康は、人一倍忍耐力があったといっていいでしょう。

慎重に根気強く自分の時代が来ることを信じて待ち続けていたのかもしれません。

わたしたちは、この一人の武将の生き方や考え方を時代を超えて学ぶ点が沢山あると思います。

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