織田信長を裏切って本能寺で打った明智光秀だったが、わずか11日後には羽柴秀吉に打たれることになる。
「三日天下」という言葉もできるほどの短い天下だった。
明智光秀はなぜ、こんなにも簡単に打たれたのでしょうか?
運が悪かったのか、作戦が悪かったのか、その辺を見て行きたいと思います。
まるで坂から転がり落ちるように展開が速く、あっという間に時代は変わっていきます。
明智光秀が11日後に羽柴秀吉に打たれた「山崎の合戦」について簡単に解説
『山崎の合戦』とは簡単にいえば「本能寺の変」のあと、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と明智光秀が起こした合戦のことです。「天王山の戦い」とも呼ばれます。
本能寺の変が起こったのが天正10(1582年)年6月2日。
その2日後に中国地方にいた秀吉のもとに信長の死の情報が伝えられます。
その時秀吉は香川の高松城を攻めていましたが、知らせを聞いてすぐに和睦を持ち出し、中国地方を離れます。
途中で兵を集めながら、明智光秀がいる側まで来る頃には羽柴秀吉の軍は4万もの立派な軍勢が出来上がっていました。
その頃、明智光秀は信長が死んだと聞いた秀吉が攻めてくるのは必然。迎え撃つ準備をしなくてはいけません。
しかし味方になると予想していた軍勢は「もしかしたら信長は死んでいないのかもしれない」と考え、信長が生きていた時のことを考えると、明智についたら謀反となりただでは済まないと思い尻込んでいる状態。
織田信長の首を取っていなかったことが、災いとなります。
そのため思ったように軍は集まらず、秀吉が側まで来た頃、明智が用意できたのは1万6千。秀吉の4万に比べると心細い軍勢でした。
本能寺の変が起こってから10日後、2人はついに対峙します。場所は京都の山崎。
この山崎で明智はまたひとつ失敗を犯します。
明智は本能寺の変の後、民衆を味方にするために民衆を襲ってはいけない、迷惑をかけてはいけないと禁制を出します。
この禁制を自らも守るために、戦略的には不利な場所に布陣を組むことにしたのです。
真面目な性格といいますか、どこか抜けているといいますか…
軍勢の大きな差、不利な立地での布陣、これらが重なって本能寺の変から11日後の13日には明智の軍は総崩れとなりました。
そして、最後打たれたのは軍師、黒田官兵衛の策が決め手となります。
黒田官兵衛の策とはどのようなものだったのでしょうか?
その辺を次に見ていきたいと思います。
軍師、黒田官兵衛の策とは?
1582年6月13日明智光秀は、勝竜寺城を基地をして天王山の羽柴秀吉と戦うことになります。
明智光秀も善戦したが、もはや兵隊が数百名しかいないので、一旦勝竜寺城に待機します。
そして、羽柴秀吉の軍は勝竜寺城を包囲します。
そこで、軍師黒田官兵衛が知恵を出します。
羽柴秀吉に「勝竜寺城を完全に包囲しないで、一箇所だけ逃げ道を作っておくのです。」
と言います。
そして、「その逃げ道から、兵隊は逃げ出すのでそこを打つのです」と進言します。
羽柴秀吉は黒田官兵衛の策を実行します。
そして、明智光秀の兵隊はまんまと逃げ道から逃げ出します。
兵隊のいなくなった明智光秀には、数人の側近だけになります。
もうこうなっては戦えない明智光秀は、闇夜に隙を見て逃げ出しますが途中で農民に竹槍で刺されて亡くなります。
1582年6月2日に織田信長を打ってから、わずか11日後の6月13日に亡くなったことから、「三日天下」という言葉ができました。
これは、11日の間の3日間だけ京都で政務をとったからです。この3日間は天下だったというわけですね。
その後の羽柴秀吉はどうなったのか?
明智光秀を倒したからといって信長の後継者は秀吉だ。という訳ではありませんでした。
信長にも子供がいましたし、戦国時代は「力があるものが天下をとる」という考えだったため柴田勝家が一番の有力候補でした。
この柴田勝家を秀吉は1583年賤ヶ岳の戦いで討伐、同じ年に大阪城の建築を始めます。
これは権力を誇示するために城を建てたと言われています。ここでとうとう、秀吉は信長の後継者なのだと認められるようになります。
最後に
信長の後継者と認められましたが、ただ一人「徳川家康」だけはそれを認めず翌年に対峙することになります。
これはまた別の歴史になるため今回はこれまでと。
それにしても明智光秀は本能寺の変までは策も運も良かったのに、その後がぐだぐだ…勢いだけで来てしまったという印象ですね。
3日天下にならないよう常日頃から計画を念入りにというのが教訓でしょうか。
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