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井伊直弼とはどんな人だったのか?安政の大獄と桜田門外の変を簡単に解説!

歴史

本日は歴史のお話。「桜田門外の変」聞いたことありますよね。

今日はそれが起きた発端の「安政の大獄」、そして「桜田門外の変」が行われた理由、そして全ての中心人物「井伊直弼」について少しお話しようと思います。

歴史で習ったけど、わかっているようでよくわからない話ですね。

そして、井伊直弼とはどのような人だったのでしょうか?

歴史では、悪者になっていますが、本当に悪者だったのでしょうか?

その辺を見て行きたいと思います。

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安政の大獄ってなに

安政の大獄(あんせいのたいごく)とは簡単に言えば、1858年から江戸幕府が罪を犯した、または犯罪に関わった武士や学者、百姓などを逮捕した出来事を指します。

これを行ったのは井伊直弼(いいなおすけ)

これは今では暴挙と言われる事件ですが、これを行うことになった発端は「外国による日本開国」です。

1853年にペリーが来航し、アメリカと日米和親条約を結びます。

下田と函館だけが、貿易をできることになり、鎖国が事実上終わりになりました。

この時、下田に滞在していたアメリカ人のハリスがもっと他の港も開国するようにと、日本に要求してきます。

この時の老中だった、堀田正睦(ほった まさよし)が結ぶしかないと考え、朝廷にお願いに京都に行きますが、ことごとく反対されて諦めます。

そして、この後大老に就任した、井伊直弼が1858年に周りの反対を押しのけ、朝廷にも何も言わないで、勝手にアメリカと結んでしまいます。

これが「日米修好通商条約」です。

この条約がひどかったことがたくさんあり、周りの人は怒ってしまいます。

まず、「治外法権」

これは、アメリカ人が犯罪を犯しても日本では罰することができないというものです。

あとは、関税がかからないということです。アメリカから入ってきたものに対して、関税がかからないので安くなるので、日本のものが売れなくなるのです。

今のTPPのようなものですね。

それともうひとつ、日本がアメリカ以外の国と有利な条件で契約したら、アメリカとも同じ条件で結ばなければないというものです。

アメリカが日本以外の国と、有利な条件で結んでも日本には関係ないということもあります。

こんな、日本にとって不利な条約を勝手に結んでしまった、井伊直弼には日本中から避難が集まります。

朝廷は裏で「これはもう駄目だ、幕府に内緒で新しい朝廷に忠実な将軍をたてて外国を追い払おう」と動き始めます。

これを知った井伊直弼が行ったのが「安政の大獄」なのです。

朝廷の信頼を失った井伊直弼はもう開き直ります。

「幕府を批判する者は処刑」と言い出したのです。

当時の攘夷派は幕府に文句はつけるのに提案などは一切なし、学者は町民を煽って事態を悪くする、そして責任は井伊直弼に…、ここまで最悪な状態の渦中にいる井伊直弼には少し同情してしまいそうです。

この状況を一気に回復させようと行った「安政の大獄」により井伊直弼は「赤鬼」と呼ばれ、「桜田門外の変」に繋がります。

桜田門外の変ってなに?

桜田門外の変をおこしたのは攘夷派の水戸浪士17人と薩摩浪士の1人。

なぜ水戸浪士なのか。安政の大獄の説明に出てきた一文「新しい将軍をたてよう」、この候補に挙がっていたのが水戸藩でした。

安政の大獄で死罪になった8名のうち、吉田松陰以外は水戸藩に関わる一橋派の人たちでした。

それにより井伊直弼は幕府の敵とし、安政の大獄で水戸藩を弾圧したのです。

幕府を立て直そうと必死の井伊直弼は、その非情なまでの行いに不満を持つものが続出していました。

さらにこの水戸藩の弾圧。浪士たちは不満を爆発させ1860年、江戸城桜田門で井伊直弼の暗殺を実行します。これが「桜田門外の変」です。

雪がふる3月3日、60名を引き連れた井伊直弼は江戸城に向かっていました。

桜田門に近づいた時銃声がなります。その銃声と同時に水戸浪士たちが、一斉に襲い掛かります。

雪のための装備が邪魔をして護衛の武士たちは井伊直弼を守り切ることが出来ず、桜田門外の変が成し遂げられてしまいました。

この桜田門外の変、井伊直弼の死によって江戸幕府は力を失っていくきっかけとなります。

井伊直弼とはどのような人だったのか?

最終的には「赤鬼」と呼ばれてしまった井伊直弼とはどのような人だったのでしょうか。

産まれたのは1815年、彦根城の一角のお屋敷で生まれました。

直弼の父は彦根藩主の名君と呼ばれていましたが、直弼は藩主を継ぐ道は用意されていませんでした。

他に養子に行くか、家臣として養われるか、それだけの道で到底表舞台に出てくるような立場ではありませんでした。

兄弟たちは他に養子に行く中、父の後を継いだ兄弟が亡くなってしまいます。

その時養子にも行かず家に残っていたのが直弼だったのです。

来るはずがない奇跡に直弼は「出世することはないと思っていた、くれぐれも善い政治を行えるようつとめる」と言っていたそうです。

しかし継いでからわずか数年で「ペリー来航」という歴史的にも大きな出来事が起こり、安政の大獄、桜田門外の変に続きます。

井伊直弼は通商条約に待ったをかけたことからもわかるように「生真面目で慎重な性格」でした。

今アメリカと戦っても日本は負ける、今はおとなしくして力をつけてまた鎖国にしたらいいと説得をしたそうです。

再び鎖国を薦める前に勝手に結ばれた通商条約、そして増え続ける外国人、鎖国はいつなのだと急かす朝廷。

生真面目だけれど融通が利かないところもあったために、こんな状態になってしまったのでは?と言われています。

生真面目な性格は桜田門外の変にも見られます。

安政の大獄により恨みを持つものが多く友人たちは「護衛を増やすべきだ」と助言しますが直弼は「幕府の規定を大老の自分が破るわけにはいかない」と、その助言を受け入れませんでした。

護衛を増やしていたら桜田門外の変は失敗で終ったのかもしれません。

最後に

井伊直弼。確かに行ったことは極悪と言われても仕方ないかもしれません。

しかし彼は「善い政治」のため「幕府のため」にただただ真面目に真っすぐ走っていた。

それだけだったのかもしれませんね。

こんな政治をして命を狙われるわけがないと、井伊直弼は藩主を継いだ時点で覚悟を決めて、それでも真っすぐ「国のため」歩んでいたのかもしれない。

そう考えると彼のその姿勢は素晴らしいと私は思います。

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