歴史上の有名人といえば、坂本龍馬ですね。
勝海舟は意外とそれほどは有名ではないような感じですね。
しかし、勝海舟がいなければ歴史に残るような坂本龍馬は存在しなかったのです。
では、この二人はどのような出会いだったのでしょうか?
人の出会いはその後の人生を変えるものです。
その人本人だけではなく、周りの人への影響も大きいです。
勝海舟と坂本龍馬の出会いは、日本の歴史を変えた一つだと思います。
では、どのような出会いだったのでしょうか?
その辺を見ていきたいと思います。
坂本龍馬と勝海舟はどのようにして出会ったのか?
坂本龍馬と勝海舟は師弟関係で、お互いに尊敬しあっていたといいます。
坂本龍馬は特に「勝海舟は日本第一の人物」という手紙を残しているほど、勝海舟を尊敬していました。
坂本龍馬は藩主からの紹介状を得て初めて勝海舟に会います。
この時の勝海舟は「軍艦奉公」という幕府の役職についていて、簡単に会えるような人物ではありませんでした。
紹介状を持って、勝海舟の自宅に訪れます。
坂本龍馬は、自分とは考えが違う勝海舟を切るつもりだったそうです。
実際には、勝海舟が先にそれを見破り自分の持論をこんこんと坂本龍馬に説いたそうです。
それを聞いた坂本龍馬は感銘を受けて勝海舟に弟子入りをするのです。
なんだかドラマのような流れですね。
紹介された身で勝海舟を切れば藩主からのとがめがくるため、最初から弟子入りするつもりで訪れたという説もあるそうです。
勝海舟はどんな人?
勝海舟は江戸時代から明治時代に活躍した政治家です。
武士の生まれで、剣術に長けており蘭学(西洋の学術・文化)にも詳しいという、若い頃から優秀な人物でした。
そんな彼は功績をいくつも残していますが特に目立つのはこの2つでしょう。
①海軍の育成
黒船来航によって日本は危機感が増し、攻撃に備えて海軍の必要性が見直されました。
その役割を担ったのが勝海舟なのです。
勝海舟は軍艦にのって「日米修好条約を結ぶための使節団」としてアメリカにもわたっています。
航海術を学び、海軍の学校を神戸に作り、日本の海軍の土台を作ったといっても過言ではないでしょう。
この神戸の海軍塾を設立するために弟子である坂本龍馬が勝海舟の手となり足となり走り回ったということです。
結果、日本の海軍は強力なものとなり、のちの外国との戦争に勝利するまでとなったのです。
②江戸城の無血開城
大政奉還の後、旧幕府軍と新政府軍により戊辰戦争が始まります。
新政府軍が江戸城に攻撃しようと憤っている時、勝海舟は徳川慶喜に「何とかおさめてくれないか」と言われます。
勝海舟は江戸城に攻め入らんとする、新政府軍の西郷隆盛の元に訪れ「江戸を攻撃したら傷つくのは江戸の庶民だ」と説得し、和平交渉を行いました。
それにより、江戸で戦は行われず、無血開城という被害者を出さずに戦争を終結させることが出来たのです。
神戸海軍操練所って?
神戸海軍訓練所は1864年の5月、海軍奉公についていた勝海舟によって設立されました。
勝海舟は外国の戦力に対抗するためには、海軍の施設創設と開国が必要という考えをもっていました。
この神戸海軍操練所の側には、勝海舟が私塾で設立した「神戸海軍塾」もありました。
神戸海軍操練所と海軍塾は便宜上分けていただけで内容としては同じだったということです。
残念ながら勝海舟の夢であった神戸海軍操練所は、幕府によって翌年には廃止になってしまいます。
坂本龍馬らと一緒に攘夷運動をしていた、藩の人間や浪士が数多くいたからだと言います。
決定打となったのは京都で起きた「池田屋事件」です。
この事件に関わった浪士が神戸海軍操練所の生徒だったものも含まれていたことから、勝海舟を疎ましく思っていた幕臣たちに責任をとらされたのです。
勝海舟は軍艦奉公免職、神戸海軍操練所は廃止となりました。
神戸海軍操練所が廃止になった後、勝海舟は西郷隆盛に坂本龍馬を託します。
最後に
わずか10か月で廃止になった神戸海軍操練所ですが、この後の日本海軍の土台となったわけですので、その存在価値は計り知れないものでしょう。
勝海舟は軍艦奉公は免職になりましたが、亡くなるまで様々な官職が行われ任を全うしています。
幕末の偉人との繋がりも強かったということからも彼の有能さが伺えます。
が、「女好き・犬嫌い・発言も態度も豪快で同僚には嫌われていた」という情報もあるので、素晴らしい人物の一言ではまとめられそうにないですね。
神戸海軍操練所と坂本龍馬についての動画を見つけました。
「神戸の旅 龍馬の足跡を探して 前編」
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