日本橋にあった魚市場が築地に移った歴史!徳川家康が魚市場を作っていた!

 

日本橋に魚市場があったことご存知でしたか?

なんと、徳川家康が魚市場を作ったのですね。約300年もの間、日本橋に魚市場があったそうで、今の日本橋からは想像がつきませんね。その後、築地に魚市場は移転しましたが、まだ100年も経っていません。300年も続いたのはすごいことですね。

 

それでは、日本橋にあった魚市場が築地に移った歴史について見ていきたいと思います。

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日本橋の魚市場の歴史について

かつては日本橋に大きな魚市場がありました。天正18年、1590年に徳川家康は江戸に入府しました。

その時に大阪の漁民の33名を引き連れ江戸に入り、日本橋本小田原町の河岸の地で漁業をする許可を与えました。そこで捕れた魚類はまずは江戸城に献上品として納めます。納めた後、余った魚は市場で販売しても良いとされていました。

徐々に漁業者や販売する人が増えていき本格的な魚市場が出来上がっていきました。そして、干物を作る人や魚を加工する人も増えてきます。すると、包丁が必要なので刃物屋も増えてきます。

さらに、そこで働く人たちに食事を提供するために、めし屋も増えてきます。そうしてどんどんと商売人が増えていって、日本橋の魚市場はどんどん栄えていって賑やかになりました。

築地に移転したのはいつ頃なのか?

大正12年9月の関東大震災で、日本橋の魚市場もほとんどが焼き尽くされてしまいます。

そこで、一旦は芝浦に移転するのですが交通の便が悪いなどのことから、すぐに築地に移転することになりました。

1658年に八丁堀沖の江戸湊を埋め立てたことから、新たに土地を築いた地、「築地」と名付けられた場所が出来ました。

昭和8年の1933年に日本橋の魚市場が築地に移転、さらに2年後の1935年に正式に「東京都中央卸売市場築地本場」が開業しました。

その後太平洋戦争開戦や東京大空襲などがあり、一時はその勢いも落ちましたが少しずつ魚市場としての活気を取り返していきました。

 

築地市場の見学の様子の動画を見つけました。築地市場の様子が見れます。

【2016年豊洲新市場への移転~最後の築地市場(場内)】6分29秒

豊洲に移転するのに問題点は?

築地の市場が出来てから70年以上。市場の建物の老朽化が進み、建物の一部が破損して落下などの問題が増えてきました。

またスペースも狭くなり作業の効率の悪化、鮮度の保持の困難などの問題も浮上してきて築地からの移転が検討され始めました。築地の次の場所に選ばれたのはニュースでも何度も聞いた「豊洲地区」です。

豊洲に選ばれた理由はなんと言ってもその土地の広さ。またアクセスのいい立地から輸送時間などのコストも考慮されています。

そして最後に築地で築いてきたお客様との継続性が、保てる場所であることも豊洲地区が選ばれた理由の一つです。

当初、豊洲地区に移転する時期は2016年の11月7日となっていましたが、小池百合子さんに都知事が変わったことでストップがかかり延期となったことで注目されました。

都知事である小池氏は「安全性の懸念」「費用の不透明」「情報不足」を移転延期の大きな理由として挙げています。生鮮食品を扱うにも関わらず、豊洲地区の土壌が汚染されていると言います。

かつて豊洲にあった東京ガスの工場から染み出た物質が汚染原因です。土壌汚染は、汚染された土を取り除いて綺麗な土を入れる「盛り土」をすることで解決できるはずでした。

しかし実際には盛り土は当初の予定の3分の1しかされていなくて、予定になかった地下空間が作られていたのです。

ニュースで騒がれましたが実際にはこの状態であっても、土壌汚染は許可範囲になっており問題はないと言います。

地下空間も地下水を取り除けば建造物的には問題はないけれども、費用が掛かり過ぎていることが問題と言われています。

また豊洲建設の費用が3900億円の予定が5900億円と1.5倍に膨れ上がっていることも延期の理由のひとつ。

なぜ盛り土がされなかったのか、なぜ地下室が作られたのか、計画はどこからかわっているのか、費用が掛かり過ぎているのはなぜなのか。

こんなにも疑問点があることが豊洲の問題となっています。

最後に

延期をすることで豊洲の維持費が1日に700万円の費用がかかるそうです。

今の不透明なままで進めていいものか、移転予定が見通せない状態で1日のこれ程の費用を掛け続けていいものか。

難しい問題ですが、築地の次となる観光都市にもなるかもしれない場所、食を扱う場所、ということを忘れずにまずは安全第一で計画を進めてほしいものです。

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